クチコミ症候群

昔はコント中心だったお笑い・バラエティ番組に、いつしか「司会」として「大物お笑いタレント」が入るようになり、後輩の若手芸人を弄って遊ぶだけのような内容になり廃れていったため、昨今の一発芸的お笑い番組が増えたように思います。
衰退期のお笑い番組で一番目立っていたのは、「大物お笑いタレント」の傲慢な言動と、スタッフの笑い声だと記憶しています。


涼宮ハルヒの溜息」が、小説55ページずつ・5話構成ではないか?、という話を聞いて、作り手の笑い声が聞こえたのは幻聴だったのでしょう。

ハルヒ「涼宮ハルヒの溜息」は1話毎に原作55ページづつ消化 5話構成がほぼ決定です(今日もやられやくさま)


初回のラストシーンが、台詞の掛け合いの途中で分断されていた事、その為2回目冒頭が、初回ラストシーンと重複していた事も、CMを挟んで同じシーンを何度も見せるバラエティ的押し付け編集的だなぁ…と思っていたのですが、単純に「275ページの原作を5回で見せるから55ページずつ」としたのであれば、頷ける話です。


ラストカットならまだしも、冒頭アバンを会話の途中から開始するのは流石に意味不明になるから、という理由でラストシーンを再録したのでしょうね。


連載小説では、各掲載回の中で山場や次回への引きを作るのがセオリーとなっています。
物語への興味を持続させ、読者を楽しませるための作法・セオリーと言っていいでしょう。


勿論、それは昔ながらの「形式」であって、そんなものを打ち破って尚且つもっと読者を面白がらせる手法があるのであれば、どんどん使うべきでしょう。


物語を紡ぐ、という意味でテレビアニメーションでも同じことが言えると思います。
旧来の手法を否定して、もっともっと視聴者を楽しませ、驚かせることが出来るのであれば、どんな事でもやっていただきたいと思います。


しかし、ループする内容だからと言って8回繰り返す事や、原作小説を単純に放映回数で割って強制的に話をカットする事が、従来の演出技法を凌駕するほどの面白さや新鮮さを生み出したと言えるのでしょうか?


僕には作り手の「くくく、よく気付いたね。どうだい、面白いだろう?君達にこの面白さが伝わってよかったよ」という笑い声だけが聞こえてくるような気がしてなりません。


そして僕は、全く面白いとは感じられませんでした。
所詮、個人の感想なのですから、そういう人もいるね〜、感性が古いよね〜と言われるかもしれません。


それはそれで結構です。
僕は面白くなかったし、尚且つ露骨な「話題作り」の意図が透けて見えて不愉快であった、と書き記すのみです。


2期が始まる頃に、「涼宮ハルヒの必然」というエントリの中で僕はこう書きました。

中の人達が期待したような踊り方ではないでしょうが、存分に踊らされたいものです。


何故「中の人達が期待したような踊り方ではない」と書いたのか?
それは、当のエントリにも書いていますが、3年前の「涼宮ハルヒ≠Web2.0」というエントリを書いた頃から、再三言い続けて、危惧していた事があったからです。


それは、「一期の爆発的ヒットは、時系列シャッフルや独立U局放映による情報格差が口コミを誘発したからだ→それは自分たちが仕掛けたからこそである」といった作り手側の思い込みを糾したい、と考えていたからです。


確かにそれは一因ではありますが、結果としてそうなっただけであり、最初から意図的に起こせたものではありません。
特にYouTubeの勃興期と重なるという最大の要因は偶然でしかありませんでした。


けれども、彼らは「ネットで話題になる仕掛けを仕込むことが必要だ」と考え、今回の様々な仕掛けを用意したとしか思えないのです。
僕は、そのような勘違いして仕込んだ仕掛けには乗れないが、自分の感性で楽しみたいものだ、という意図を込めて「期待したような踊り方は出来ない」と書いたのでした。


一期における時系列シャッフルは、原作が人口に膾炙する程売れていない、TV放映は独立U局で数も少ない、という中でいかに小説までの波及効果と、原作既読者に対する面白さを担保するか、という中で出てきた手法だと思われます。


吹き荒ぶ逆風の中で、何とか面白いものを作ろう、面白いことが大好きなハルヒならどうすれば喜ぶだろう?といった考え方に基いていたと思います。


けれども、二期(?)においては、

・いきなり二期では時間が経ちすぎて判らない人も多いだろうから再放送も混ぜよう
・出来るだけ盛り上げてから「消失」を見せたいので、それまでを引き延ばそう
・どうせならエンドレスエイトを8回やれば、話題にもなるし、五月蝿いファンも驚くだろう
・話題と言えば、「溜息」も仕掛けがほしいな…原作小説を五等分とかどうだろう?

といった、「どうすれば面白くなるか?」という本質から離れ、「どうすれば話題になるか?」という方向にのみ暴走しているように感じられてなりません。


僕は、批評したくて見ている訳ではありません。
「あぁ、面白かった」と思いたくて見ているだけです。
メタな視点とか、どうでもいいのです。


…っていうか、作り手が本気でコレを面白い、と思っているのであれば、もう何も言いませんけどね。
ただ、アウトプットとしては作品しかないわけで、作るだけ→見るだけというのは、双方向のコミュニケーションとは全く異なるものであると考えます。

やってる側も、見ている側も、真摯に作っている人もいて、真摯に怒っている視聴者もいて、それぞれに事情はいろいろあろうけど、そのコミュニケーションがさまざまなメディアによって起きている状況のライブ感が、とても面白かった、というのが「エンドレスエイト」についての私の感想ですね。
「退屈...」長門が夏悔いた/終わる「エンドレスエイト」にひと言+(白鳥のめがねさま)


「視聴する側は、ある種意図したとおりに大騒ぎしていた訳で、さぞかし痛快だったろうな、作り手は。」と考えるだけで、全く楽しめなかった、というのが僕の感想です。
そして、本気で面白いと考えているのであれば、彼らとコミュニケーションなんて成立しないな、とも思うのです。


ただ、その構成を指示した者と、制作現場の意思が全て統一されていたとは思っていません。
けれども、商売としてやっている以上、従わなければならない事など幾らでもある訳で…


そう考えると、作り手の中にも相当ストレスを感じていた人がいるのだろうな…とも思います。


いずれにせよ、今回の一連の「仕掛け」を経たお陰で、エンドレスエイトの7回目を録画し忘れても気にならないし、溜息が始まっても、リアルタイム視聴をせずに録画を数日後に見ても平気、という位、僕の中での優先度は下がってしまいました。


願わくば、「消失」は劇場版にして2時間以内という制約の中で綺麗に纏め上げてほしいものです。
小賢しい小手先の「仕掛け」など無くても、面白い物語を紡ぐ事は出来るのですから。