涼宮ハルヒの円環

今週はリアルタイム視聴が出来ないため、実況はやりません。
先週はそもそも見れなかったし…
一応今週はきちんとタイマーをセットしたので土曜日以降で感想をアップしたいと思います。
(8回目にしてループから脱出できている事を祈ります)


さて、相変わらずまとめて書く時間が取れないのですが、何故僕はエンドレスエイトのループを拒否したのか、について少しだけメモしておきたいと思います。


それは、根本的に「物語」とは何なのか?という話に帰結すると考えています。


私達の人生は有限で、一個人として体験できる出来事の総量など微々たるものです。
実際に体験した「経験」だけに頼るのであれば、人類はここまで発展出来ませんでした。


けれども私達は、「知識」や「想像力」を駆使して、個人の体験以上の「経験」を得ることが出来たのです。


「物語」とは、実際に体験していない、或いは実際には体験しようのない「経験」を与える為の装置です。
「体験」しない事を「経験」したと思わせる為に、数々のテクニックが生み出されてきました。


言葉、絵画、演劇、歌…様々な「物語」を伝える為の媒体物が生み出されてきました。


「物語」は媒体物の持つ情報量が少ないほど想像力を働かせる余地が大きくなり、より豊かな経験を生み出すことが出来ると僕は思います。
そういう意味では、「物語」に最も適した媒体は「文字」だと言えるでしょう。


逆に映像は、「物語」を伝える媒体物としては、最も情報量が多い媒体だと思います。
受け手の想像力を働かせる余地を少なくして、「物語」の語り手の意図を転写しやすくしている訳です。


そのために、撮影テクニックや編集テクニックが進歩してきました。
ですから、映像で「物語」を伝えるための方法は限りなくあるといっていいでしょう。


要するに、「何回もループして、独りそれを観察してエラーを蓄積していく長門」の気分を味あわせる為には、実際にループを何度も描写しなくても、そう感じさせる方法もあると僕は思っています。


けれども、彼らは「実際に何度もループすれば一番伝わるんじゃない?」と判断したように思えます。


「『経験』を伝える為に、実際の『体験』こそが最も適している」、と考える人には「物語」を紡ぐ・語る資格は無いと考えます。


大切なものを失った気持ちを伝える為に、受け手が大切なものを無くさなければ理解できないと考えるのでしょうか?
他人の心の内ですら図り知ることのできない私達が、同じ体験をしたとしても同じ「経験」をした事にはならないのは自明。


伝えたいことを伝える努力をせず、同じ体験さえさせればいいだろう、寧ろそれで伝わらない相手ならば伝える必要はない、とでも考えているのでしょうか?


余りにも浅薄では?


そもそも終わってもいないので、決めつけるのは早計だとは良く良く理解しています。


ただ、二期においては「話題作り」のために、意図的に情報格差を作ろうとする様が露骨に透けて見えたと感じています。


彼らの最大の間違いは、2006年にハルヒがヒットした原因を、「自分たちの仕掛けがうまくいったからだ」と自負し過ぎていることであると思っています。
当時流行していた「Web 2.0」の最先端を自分達が駆け抜け、成功したんだ、という誤った感覚が蔓延しているように感じます。
(この辺りの気持ち悪さは何度か書いているのですが)


なんだかまとまりがありませんが、なんとなくそういう部分で、もういいや…ってなったというのが一番大きいと思っています。